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本棚に落書き

製造業/事業推進/音楽/サッカー/海外生活=独り言。駄文/雑文です。

なんのこっちゃ症候群

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こんばんは。





会社の課題文で随分なテーマを書くことになりました。



個人的に含むところがあるというか、別段書きたくもない、書く必要もあまり見当たらないものでしたがせっかく書いたのでコピペってブログに保存しとこうかと。



内容は意味不明なところは飛ばしで。




ま、それだけです。


ではまた。



(以下該当駄文)







   誰もがこの手のことを多かれ少なかれ考えてきたはず。特に今から社会に出て行こうとする人間であればなおさらだろうと思うが、今回それに付いて改めて考える機会に恵まれた。
   
課題文その1は具体的な「幸福の形」というものは多岐にわたり、そしてそれでいいものであるとする。その上で漠然とではあるが「その先」を、自分自身の意見を社会に一般化することで幸福の全体像を語っている。

課題文その2では主に生きがいについて自らの生涯を例にその形の多様性を認める方向で書かれており、その上で人生において長い時間を占めるもの(ここでは仕事)に生きがいを感じることは幸福感を得るためには重要であるとしている。

課題文その3では、生きがいというものの感情的・衝動的側面と認識的側面について語っており、この二つから考えて「生きがいを感じる人生」には使命感が重要な役割を果たすとしている。ここでの「生きがい」は幸福感とほぼ同義である。
   
この三つでおぼろげながら分る幸福の形は、少なくとも「多様性がある」ものである。そして使命感や影響力といった、一人では完結しない「外側へ向かう要素」が存在するように思う。
   
私自身が過去に感じた幸福感やそれに反する感情を思い返してみると、表面的な部分で必ずしも同一種のものではない。例えばサッカーで相手チームに勝ったときであり、誕生日を祝ってもらったときであり、面白い本を読んだときであり、知らない物事を知ることで好奇心が満たされたときであり、女の子に告白されたときであったりする。

逆で言うならば、試合に負けたときであり、誰かに怒られたときであり、否定されたときであり、やることが無く目標も無いときであったりする。

しかしこれらの本質的な部分はいくつかの纏まりへ収斂する。

これは課題文3の内容に同調する部分だと思うのだが、感情的側面と認識的側面の存在がある。
単純に自分が心から楽しいと思えること、何のためでもなく「それ」のためにただやりたいという感情で動き、それが達成されることに対する喜びであり幸福感がある。これは自分の好きなことをしているときの幸福感を説明するものだろう。また、誰かの役に立ったり、誰かに必要とされたり、他者との関わりの中に見出すものがある。それらは社会的な位置と言うほどに広範囲でなくとも、個々人それぞれが多数持つ小規模のコミュニティ内における「存在意義」に関わる幸福感だろう。
   
そういうレベルでは、私自身の生きがいや幸福感についてもいくつかの形で語ることが出来る。私の考え方は課題文3のような語り口で語られるものだからだ。

個人の感情としては、課題文1のように「身の回りにいくらでも転がっている幸福から自分の物を選び出し、それを最高に高めること」で「心を楽しませる」状況を作り出せると思っている。その意味で私は「生きがい」と呼べるものとして、就職活動の際もここのところの生活でも「面白いものを探し続ける」をスローガンのように掲げている(言葉にして意識し始めたのは大学入学後ではあるが)。
つまりは知的好奇心や経験主義的な部分が自分の本質であり生きがいであると感じている。


それとは別に、認識的に感じる幸福感ももちろんある。それは「人の役に立ったとき」「必要とされるとき」etc.=自分の存在を肯定されたときに強く感じるものだ。これはもちろん私にとって幸福感であり生きがい足り得ると言えるが、上記の幸福感とは区分けを設けたいものである。私はこちらの幸福感は個人というよりも「人間」という社会的な生き物に根ざすものではないかと考えている。課題文2の内容は個人の思惑以上にこちらの側面が良く出ているように感じる。

もちろん、どちらも私が感じる生きがいであり幸福感ではある。否定すべくも無い。ただし、理性的な思考と感情的な部分は別である。その意味で、私は私個人の生きがいを問われるならば感情側面である知的好奇心をそれに挙げる。

ならば人にとって、ひいては自分にとって幸せな人生とはどう表現できるか。大事なことは、どれだけ個人的な生きがいを語ろうと、人は社会的な生き物であるという認識を持つことだと思う。(一部例外を除いて)大多数は社会的であり、対人関係を意識せずには生きていけない。他者との関わりを無視した世界で幸福や生きがいを語るならば、大半の人間にそれは適用できないことになる。

ならば私は課題文3で言うような「使命感」のようなものであり、人生や生存の理由に対する「認識」は決して軽視すべきものではないと思う。人は常に複数のコミュニティに所属しているもので、それらの中で存在意義を感じるために求められる具体的な条件は違うにせよ、本質的にはそれらはすべて対人関係の中にあるのだから自分の存在を肯定するような方向に動くこと自体が幸福感にはつながる。

バイトや仕事で「職場環境が大事だ」と言われるのはそういうことだと思う。

仕事の内容如何に関わらず、否定感が少ない職場のほうが居続けることが出来る。それは実体験と実感も踏まえての感想だ。
やりたいことをやっているか否かに関わる充実感と、その場での存在を肯定されるか否かの充実感は、前者は個人差があるが後者のほうは万人において影響力が強いものだと思われる。

なぜかは説明できないが、人とはそういう風に出来ているのだろう。どんな形だろうと必要とされれば嬉しいし、役に立てれば存在意義が出来る。社会にとって役に立つ形であるならば自分が生きている社会においての自身の生きている意味が見出しやすい。その意味でまさしく「使命感」であるし、私自身はそれを「生きやすさ」と表現している。
これは人生における幸福感を「充分だ」と満足させるに足る威力があると思うが、それだけでなく先を追い求める人も居るだろう。私自身そうである。

ならば、私自身が考える幸せな人生の形はおのずと見えてくる。すなわち他人の評価や自分のその場に於いての存在価値を見出すことを軽視せず、かつ自らの「意思」を大切にすること。その「意思」ですら社会的な要素であるのか否かについて考えることが幸福を考える上で私にとって一番の難問である。


今後の幸せを考えるならば、「求められているものは何か」を考えることはまず必要だと思う。その上で上記のように感情と認識を両立させていくのであれば、自分の選び取ってきた現在を積極的に肯定し、そこに全力を尽くすこと。

認識としての幸福と、私的感情としての幸福でバランスを取り、両者が矛盾しない形を取れるのであればそれが可能であると思う。どうしても矛盾してしまうならば、どちらかを犠牲にする前にそのコミュニティから出て行くという選択肢も一つだ。

組織や社会に対して、凝り固まらず、肩の力を抜いて、「ここだけが自分の場だ」というように視野を狭めないことは有益だ。「幸せはこうでなければならない」と言いながら頭を抱えて思い悩んでいるようでは、それは「皮肉」だろう。
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