ビッドン・ザ・デイ
こんばんは。
週末です。
基本的にこちらで一新された生活が始まるタイミング、意図的にモノが少なくなるような生活をしようと心がけています。
結果的にキッチン用品その他は一部買ってしまったわけですが
必要な家具はそもそもあるし
掃除洗濯はKosとはいえService Kosなので家賃に入っているし
拘束時間が長いので食事はおおむね外だし(キッチンも共同だし)
ほぼ必要なものはないんです。
遊ぶこと・場所の充実も日本に比べれば大変少ないですし
その意味で、一度ここらで精神的に「断舎利」してみるのもいいのかなと思い、日本から持ち込めた「遊び要素」みたいなものを意図的に置いてきてみました。
その効果は意外とよく出ていて、以前と違う行動が自然と出るようになりました。
インターネットはやはりあるのでそりゃもう、つぶそうと思えば一日時間つぶせてしまうんですが
以前よりもしれっと仕事に向かうことが多くなったり
以前よりもちょっと「勉強」してみようかなとおもったり
ナチュラルに本を読む時間が増えました。
ここに関してはもう完全に狙い通りで、こちらでの利用を想定してKindleを買ったことが大正解でした。
そういった中で、やっぱり仕事に向き合う時間はまあまあ増えたわけですが、ふと考えることがありました。
ブログで独白的に仕事の話をよくするのですが、そのほとんどが抽象に満ちていて、またとても精神的です。
あまり具体的に仕事の中身の話をしたことがないです。
なぜなのかと考えてみましたが、そこもまたふわっとしていました。
①今の仕事が好きではない
②仕事の中身よりもスタンスに価値を置いている
③仕事を通した自身の状況を語っている
みたいな理由があげられる気はしますが
①→嫌いといわれると「嫌いではない」
好きかといわれると「そうでもない」
個人的には、好きな業界ではない、と思っている。
その程度ですが
では楽しくないかといわれると、楽しんで仕事をしているつもりではある。
つまりはそういうことです。
②→これは多少はそういう向きがある、と解釈していい気がしています。
結局その向かい方みたいなものがクオリティを決めていると思っているためでしょうか。
でもそれはその業界における経験と知識を軽視するものではありません。
③→これはまあつまり、愚痴とか、自分の心の不安定さみたいなものの独白なんでしょう。
よくあるやつです。
話すと長いのに(量)、意外と話すこと自体(回数)は少なかったりする。
仕事に対して抱いていた形のない憧れは消えたと思うけれど、当時から持っている「ありたい姿」みたいなものが意外と変わらないことには驚いています。
それはそれで、大したことではないんですけれどね。
さて、今日もゆらゆらとしながら。
曖昧にいきたいと思います。
ではまた。
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