Can you feel it tonight
雪が降るとか降らないとか。
多分降らないでしょう。
こんばんは。
独り言。
スタジオ入って久々にドラム叩きました。
最高。
買ったばかりのギターも持っていって、スタジオのアンプにつないで弾いてみたかったんですが、実際大して使わなかったです。久しぶりに鳴らした自分のスネアと、ドラムセットが楽しくてそっちばっかやってました。
友達のギターに合わせて適当に叩いてるうちに暴走したりしてね。
People in the boxのニューミニアルバム、Citizen soulを手に入れました。初回限定ライブDVD Cut one が付いております。
アルバムを聴き、特典映像を見て、再度確信を強めたと同時に大きな幸せを感じました。
僕は彼らが大好きで、そして音楽が大好きです。
スタジオ入ってみたら、やっぱり自分ドラマーだなぁと思いつつ、それでも音楽全部を愛してやまないのは同じ。
とにもかくにも、生きる指針のひとつだよなぁと想う今日この頃。
人生は選択の連続である、であるとか
人間は常に最善の選択をして生きている(はずなので後悔はない)、であるとか
教えであり、深みもあるけれど自分にとって平常運転なので特に言葉にすることも無いんだよなぁ。
ただ、選ぶって行為を軽視したり、「選ばなか」ったりするわけではないのです。
僕はよく「ひとつのことを突き詰めるタイプ」との比較で、「いろんなことを手広くやるタイプ」であるように進んできている気がします。
対極ではないし、僕自身どちらでもありたいし、どちらに拠らないということは可能かとは思います。(おそらく天才にのみですが)
いかんせん何かをするというときに別の何かを捨てるという選択肢がありません。
これはよく誤解を招きますね。一般的に「ひとつのことにスペシャルである」ことは認められるんです。
逆にいろんなことに手を出す節操のないタイプというのは、その熟練度に関わらず割りに「中途半端である」と見られがちな気がします。
結局僕が違和感を感じていたのは「捨てる」という言葉に感じる妙な積極性ですかね。
俺はサッカーをやるので野球はやらない!
と宣言をする必要は果たしてあるのか?という問いです。
総体としての自由は存在しえません。それはおそらく究極の不自由でしょう。あるいは孤立と言ってもいいかもしれません。
少々次元が変わってしまってますがね。
それはそれとしても、自由は切り売りし、買い取るものです。それがつまり選択する自由ということです。
僕らはサッカーをする時間を選び取る代わりに、その他のことをする時間を失うのです。
誰にも監視されていないネットワークという環境を一部分売って、対価として「安全なネットワーク環境」の自由を買い取るのです。
そういうのとおんなじで、人間は選択することで基本的に何かを犠牲にしているのです。
それはどういうタイプの人もおんなじで、いろんなことをやってみたい僕のようなタイプの人間・知的好奇心の強い人間・体験型の人間でも、何かを得るためには対価が必要であるという基本原則は理解しているのです。
その意味で真に何もかも犠牲に出来ない人間はまさしく「中途半端」に映ることでしょうね。
結果として犠牲になるものというのは気付かないレベルでも数多くあるし、犠牲にするものを選択することもあるけれどそもそも先打ちで可能性を排除しにかかる必要はないでしょう。
いつだって無限にたゆたう姿勢はいいものだと思いますよ。
犠牲に積極性は違和感だ、という話と、やりたいことをたっぷりやったらいいだろうよ、というお話です。
スペシャリスト云々であったり、ひとつの分野に秀でなきゃいけない、というのは社会性であったりコミュニティであったり、外部から求められるものの話で自己の本質ではないし、その意味で自分が納得できる状況であればなんら問題はないでしょうね。まさしく納得しているわけだし。
ま、そんな感じで。
やりたいことは何だ。やらなきゃいけないことは何だ。
どう在りたいのか。どう在らねばならぬのか。
そういうところなわけです。
はい、曲。
Going steadyで銀河鉄道の夜live ver.
日本パンクロックシーンでは超有名ですな。
ボーカル峯田氏の精神がまんま、「やりたいことやったれ」状態で心地いい。
今は銀杏boyzですが、まあ同一ライン上だとは思います。
言いたい事を、やりたいことを、ど直球に青臭く歌うこの姿勢に痺れます。
こういう音楽の一面も好きです。
ついでに今日のブログタイトルの曲、one night onlyでcan you feel itを。コカコーラのやつです。
この手のメロディラインはいつだって、僕らを勇気付けてくれますよね。
ではまた。
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