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本棚に落書き

製造業/事業推進/音楽/サッカー/海外生活=独り言。駄文/雑文です。

瞑想による迷走

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しばらく。




こんばんは。




なかなかの放置っぷりでした。



考えたことを一言ツイッターにつぶやくほうが簡単なもので、文量があると次第に細部から消えていくという。





近況報告含め淡々と。








内定者合宿終了。無事内定証書をいただきました。




一泊二日と短い合宿でしたが、感じるところはそれなりに。自分の一面として考える部分も多くあります。


徹夜でした。



もうなかば徹夜「しなきゃいけない」風潮が出来始めているのも否めませんが、まじめに取り組むならどちらにしろ寝ている暇はありませんので、結局徹夜ですね。



みんな考え方はそれぞれ。



価値観や意見をぶつけ合うときは、それが結局論理性の齟齬なのか、価値観の齟齬なのか、設定条件の齟齬なのかが非常に分りづらい。



だから意見の分かれやすい微妙に揺らぎのあるテーマでもってこそ合宿等での議題とするにふさわしいのかもしれません。




僕は割りとドライなのか、みんなの合宿における感想を聞いていてもそれぞれ色々違いがあるものだなぁと思います。


多分内側で沸々と闘志を燃やすタイプです。うん。


赤ではなくて青い炎です。



泣く人もいるんですね。



内定者の間ですでにネタキャラ扱いされ始めております。


先輩社員からもバーベキューのとき僕だけ瓶ビール丸ごと渡され、乾杯のときも元気良く瓶で挨拶回りする始末。そして瓶のままあおります。


幾度と行われた自己紹介のたびになんとなく「ひねくれモノ」を自称していたのですが、そんなにひねくれてません。


皆さん一体何を想像されていたのでしょうか。そんなにひねていたらそもそも面接通っていないと思われます。



そのギャップで「意外と素直で良い子」を目指します。



まあ結果のネタキャラなわけですが。



家帰ってソファに寝そべって、気付いたら5時間たっていたというくらい熟睡しました。



取締役の方や先輩社員の方々といろんなお話を出来たのは貴重な体験でしたね。


ああいう機会をこれからも逃さずに大事にしていきたいと思います。






バイト先で子供連れのお客様を良く見ます。



気付くのは、昨今の若いお母様方お父様方は本当に口が悪い。


叱り方、というか、叱る事と怒る事の違いが分ってらっしゃらないのではないのか。



「てめぇ、やめろっつってんだろ!」



どこのヤンキーですかあなたは。


その台詞は、他者に対して嫌悪の感情をぶつけるときに用いるもの。そして恫喝するときのものです。


子供の教育やら、その子の未来が心配だ云々こまごました至極一般的なことが頭を駆け巡るものですが、特に口に出すほどのことも無い。



ただただ哀しくなったのは覚えています。


そういう母親父親について、ある方面の方々は「子育ての大変さ」や僕個人の「子育て経験の欠如」を挙げて、ある種擁護の発言をされるでしょう。


そうして子供が淡々と育てば、それはそれとして「なんだかんだ立派に親をやっている」と。



僕から言わせれば、「餌をやっておけばなんでも育つ」んですよ。


そういう意味で、帰る家を持ち、日々の食事を過不足無く与えられるならば親をやっていると言って良いと思います。

大少如何に関わらず代わりに責任を取るならば保護者とも呼べるでしょう。


でも真の意味で育てているとは思わない。

誰のおかげで成長できたんだとなればこの場合は「ご飯のおかげ」という身も蓋もなく、なんなら答えにすらなってない一言がむしろ正しく響くでしょう。


僕が口出しすることではなし、実際具体的な案件に口出しはしません。


もし口を出すことがあっても、お為ごかしにならないよう、あくまで「僕個人の不快感」を理由に苦言を呈する形になるでしょう。


偽善という以上にぴったりの言葉があったはずですが忘れてしまいました。あえて言うなら綺麗事、かな。


綺麗事は嫌いじゃないけれど、この手の話で持ち出す気にはなれないね。









仕事が始まるにあたり、少しずつ考えることも変化し、合宿を機に量も増えました。


住む場所に関しても、最初は通勤でも良いかと思っていたのですが、先輩社員から軒並み「きついよ」と言われ再考中。


最初は間違いなく自宅通勤になりそうですが、目処が立った時点で都内もしくはベッドタウンへ引っ越そうかと思います。


安いところないだろうか。



勤務地は○○山王です。


社員の人やその周りの方々にはあまりブログを知られないほうが良いなぁと考え始めた今日この頃。







今年もクリスマス中止のお知らせ委員会を発足しようかと考え中。



どなたか優しい方、僕をお誘いください。



おそらく「バイトだから」と言って断りますが。



いや、もう有無を言わさず働かざるを得ない空気。


何なら年末年始も働けっていう空気。



どうにもならんね。



まあシーズン商売だから仕方なし。




なんか面白いネタでも教えてくださると今年の中止委員会は盛り上がるんですけれどね。



多分疲れていて更新自体しない恐れが結構な確率でありますが。




なんのこっちゃね。





ああそうそう、ツイッターをそこそこちゃんと使い出したので、やってる方お教えくださいな。あれはあれで面白いかもと思い始めてます。


これからの仕事柄、いろんなメディアネットワークサービスに触れることはプラスでしょうな。









打っても響くとは限らない、それが思惑ってモノですな。


なんと思っていらっしゃるのやら。僕には皆目見当も付きませぬ。


猫のように気まぐれにその顔を見せますが、意図を探る間もなく消えてゆき。


その真意は結局測り損ねてます。


期待も諦観も特別な感情ではありませんね。


意外性っていう意味では、学んでから一年と経っていない訳で。


あなたは何を考えてらっしゃるんでしょーか。


とまあ、誰に向けたでもないメッセージ。



さて、曲。


まさかとは思いましたがgrapevineを貼ったことがなかった。




ということでGRAPEVINEの名曲、Breakthroughを。


当時はこの奇妙なうねりを特別気にせず気に入っていましたが、今聞いてみるとなんとも言えない妙なメロディセンスをお持ちです。




ぜひご一聴を。




ではまた。






ハダカの俺はたかがこんなもんだって 誰にも言えやしねえな
ひたすら そう 駆けずり回って
あなたにいつも近づきたくて

足りねえぞ あの上には何があるんだ
笑えんぞ 笑えるのは今だけ
Jim Morrison? この痛みはキリがないんだ
ただの理想で越えていけ

アイデアのスウィートソウルが嘘みたいに鳴ってて
俺は横目で見ていた
時間はスロウ 死ぬほどあって
あなたにいつも近づけなくって

ヤラれるぞ 右左を見りゃわかるさ
「枯れねぇ」と 枯れてから言うやつばっか
バロメータ この怒りはハッタリじゃないんだ
腹の底で燃えてるぜ

足りねえぞ あの上には何があるんだ
危ねえぞ 笑えるのはお前だけ
Jim Morrison? この痛みは計り知れねえんだ
ただの理想で越えていけ




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なんのこっちゃ症候群

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こんばんは。





会社の課題文で随分なテーマを書くことになりました。



個人的に含むところがあるというか、別段書きたくもない、書く必要もあまり見当たらないものでしたがせっかく書いたのでコピペってブログに保存しとこうかと。



内容は意味不明なところは飛ばしで。




ま、それだけです。


ではまた。



(以下該当駄文)







   誰もがこの手のことを多かれ少なかれ考えてきたはず。特に今から社会に出て行こうとする人間であればなおさらだろうと思うが、今回それに付いて改めて考える機会に恵まれた。
   
課題文その1は具体的な「幸福の形」というものは多岐にわたり、そしてそれでいいものであるとする。その上で漠然とではあるが「その先」を、自分自身の意見を社会に一般化することで幸福の全体像を語っている。

課題文その2では主に生きがいについて自らの生涯を例にその形の多様性を認める方向で書かれており、その上で人生において長い時間を占めるもの(ここでは仕事)に生きがいを感じることは幸福感を得るためには重要であるとしている。

課題文その3では、生きがいというものの感情的・衝動的側面と認識的側面について語っており、この二つから考えて「生きがいを感じる人生」には使命感が重要な役割を果たすとしている。ここでの「生きがい」は幸福感とほぼ同義である。
   
この三つでおぼろげながら分る幸福の形は、少なくとも「多様性がある」ものである。そして使命感や影響力といった、一人では完結しない「外側へ向かう要素」が存在するように思う。
   
私自身が過去に感じた幸福感やそれに反する感情を思い返してみると、表面的な部分で必ずしも同一種のものではない。例えばサッカーで相手チームに勝ったときであり、誕生日を祝ってもらったときであり、面白い本を読んだときであり、知らない物事を知ることで好奇心が満たされたときであり、女の子に告白されたときであったりする。

逆で言うならば、試合に負けたときであり、誰かに怒られたときであり、否定されたときであり、やることが無く目標も無いときであったりする。

しかしこれらの本質的な部分はいくつかの纏まりへ収斂する。

これは課題文3の内容に同調する部分だと思うのだが、感情的側面と認識的側面の存在がある。
単純に自分が心から楽しいと思えること、何のためでもなく「それ」のためにただやりたいという感情で動き、それが達成されることに対する喜びであり幸福感がある。これは自分の好きなことをしているときの幸福感を説明するものだろう。また、誰かの役に立ったり、誰かに必要とされたり、他者との関わりの中に見出すものがある。それらは社会的な位置と言うほどに広範囲でなくとも、個々人それぞれが多数持つ小規模のコミュニティ内における「存在意義」に関わる幸福感だろう。
   
そういうレベルでは、私自身の生きがいや幸福感についてもいくつかの形で語ることが出来る。私の考え方は課題文3のような語り口で語られるものだからだ。

個人の感情としては、課題文1のように「身の回りにいくらでも転がっている幸福から自分の物を選び出し、それを最高に高めること」で「心を楽しませる」状況を作り出せると思っている。その意味で私は「生きがい」と呼べるものとして、就職活動の際もここのところの生活でも「面白いものを探し続ける」をスローガンのように掲げている(言葉にして意識し始めたのは大学入学後ではあるが)。
つまりは知的好奇心や経験主義的な部分が自分の本質であり生きがいであると感じている。


それとは別に、認識的に感じる幸福感ももちろんある。それは「人の役に立ったとき」「必要とされるとき」etc.=自分の存在を肯定されたときに強く感じるものだ。これはもちろん私にとって幸福感であり生きがい足り得ると言えるが、上記の幸福感とは区分けを設けたいものである。私はこちらの幸福感は個人というよりも「人間」という社会的な生き物に根ざすものではないかと考えている。課題文2の内容は個人の思惑以上にこちらの側面が良く出ているように感じる。

もちろん、どちらも私が感じる生きがいであり幸福感ではある。否定すべくも無い。ただし、理性的な思考と感情的な部分は別である。その意味で、私は私個人の生きがいを問われるならば感情側面である知的好奇心をそれに挙げる。

ならば人にとって、ひいては自分にとって幸せな人生とはどう表現できるか。大事なことは、どれだけ個人的な生きがいを語ろうと、人は社会的な生き物であるという認識を持つことだと思う。(一部例外を除いて)大多数は社会的であり、対人関係を意識せずには生きていけない。他者との関わりを無視した世界で幸福や生きがいを語るならば、大半の人間にそれは適用できないことになる。

ならば私は課題文3で言うような「使命感」のようなものであり、人生や生存の理由に対する「認識」は決して軽視すべきものではないと思う。人は常に複数のコミュニティに所属しているもので、それらの中で存在意義を感じるために求められる具体的な条件は違うにせよ、本質的にはそれらはすべて対人関係の中にあるのだから自分の存在を肯定するような方向に動くこと自体が幸福感にはつながる。

バイトや仕事で「職場環境が大事だ」と言われるのはそういうことだと思う。

仕事の内容如何に関わらず、否定感が少ない職場のほうが居続けることが出来る。それは実体験と実感も踏まえての感想だ。
やりたいことをやっているか否かに関わる充実感と、その場での存在を肯定されるか否かの充実感は、前者は個人差があるが後者のほうは万人において影響力が強いものだと思われる。

なぜかは説明できないが、人とはそういう風に出来ているのだろう。どんな形だろうと必要とされれば嬉しいし、役に立てれば存在意義が出来る。社会にとって役に立つ形であるならば自分が生きている社会においての自身の生きている意味が見出しやすい。その意味でまさしく「使命感」であるし、私自身はそれを「生きやすさ」と表現している。
これは人生における幸福感を「充分だ」と満足させるに足る威力があると思うが、それだけでなく先を追い求める人も居るだろう。私自身そうである。

ならば、私自身が考える幸せな人生の形はおのずと見えてくる。すなわち他人の評価や自分のその場に於いての存在価値を見出すことを軽視せず、かつ自らの「意思」を大切にすること。その「意思」ですら社会的な要素であるのか否かについて考えることが幸福を考える上で私にとって一番の難問である。


今後の幸せを考えるならば、「求められているものは何か」を考えることはまず必要だと思う。その上で上記のように感情と認識を両立させていくのであれば、自分の選び取ってきた現在を積極的に肯定し、そこに全力を尽くすこと。

認識としての幸福と、私的感情としての幸福でバランスを取り、両者が矛盾しない形を取れるのであればそれが可能であると思う。どうしても矛盾してしまうならば、どちらかを犠牲にする前にそのコミュニティから出て行くという選択肢も一つだ。

組織や社会に対して、凝り固まらず、肩の力を抜いて、「ここだけが自分の場だ」というように視野を狭めないことは有益だ。「幸せはこうでなければならない」と言いながら頭を抱えて思い悩んでいるようでは、それは「皮肉」だろう。

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勢いの痛み

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はてさて。





こんばんは。





今週末は山梨まで行ってまいりました。




富士山のきれいな写真取ったんですがめんどくさいのでアップしてません。




何の縁からか、社会人サッカーに助っ人参戦させていただきました。



久しぶりで、助っ人なんで全試合フル出場で、なんなら一日目まったく寝ずに朝からぶっ通しで。





かなりの疲労が。




夜は酒飲んで、次の日また試合して。




結局かなり負けましたけどね。




久しぶりにサッカーをやって、自分の多面性に改めて気付かされましたよ。




気持ちが昂ぶるとすごく攻撃的になります。




こちらに対して態度の悪いプレーヤーに対して徹底的に潰しにかかります。



悔しさをかなり押し出します。


わめくし、叫ぶし。



執着するし。



特にピッチに立っている間は自分でもキャラ違うなぁと。



特にスイッチ入っているときは本当に。



後輩たちとの小旅行、そこそこに楽しみました。



とりあえず今日は筋肉痛。



死ぬほどきつい。







自分は鏡のような人間だな、とふと思った。


言葉遣いはリアクションで変わる。


どの人に対しても自分なりの接し方しかしないけれど、相手の態度がこちらに対してすごく攻撃的だとものすごく攻撃的になる。


でも、それって誰でもそうだなとすぐ気付く。




つまり「他人は鏡」というのがとっても普遍的な台詞であるんですね。




人は他人を通して自分を見る、それはあながち嘘ではないんだと。




名言は普遍性を持つから、時代を超えて真理であると信じられる。



時代によって違うものは数え切れないほどに存在するけれど、どの時代にも繰り返される物事も少なからずある。



往々にしてそれは人の心や認識に関わる部分である気がする。



普遍性は時代性に拠らない部分であるから、「人」という存在は根源的にそれほど変わらないということ。









ツイッターでもつぶやいた。


「見た目は地区予選で、性格は甲子園」


正論だよね。


見積もり方のバランスに議論の余地はあるけれど、位置づけ自体は間違ってないと思う。








納得できないことの多い人間は害悪なのか。


それは何にとって害悪なのか。



そういう人間が生きていくのは平均よりもエネルギーを使うのだろうか。



僕は別段そんな人間でもないです。と思っていたいです。


文句は多いかもしれませんけど、半分以上ネタですしね。



納得できないことに納得する感覚は共有が難しい。



あと、思うに「理解しがたい思想・ルール・行動」を粛々と受け入れることが成長だというのは勘違いだろうなと。


矛盾したように聞こえますけれどね。


矛盾はしていないんです。



自分では当然と思っている不文律は、思った以上に世の中には溢れてはいない。



初めのうちは、「自分の考え方は少数派だ」なんていうのはむしろ気取っているように感じたし、実際まさかそんなに共有できていない思考だとは思ってもいない。



本気で「みんながある程度そう理解している」と考えている中に自らの異質性を発見すると、それが自分の核に近い部分で、周りとの摩擦の部分なんだろうなというのが真実味を帯びて見えてくものです。




はてさて、普通に生きているつもりなのに変な目で見られる皆様、多分誰もが同じような視線を感じながら生きておられると思いますが、その視線の質はそれぞればらばらなのでしょうね。



感情とは一筋縄ではないね。








今日はこの辺で。


すみません、曲は割愛します。




ではまた。

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Helplessness

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ああ眠い。



こんばんは。




定時以上の勤務をした日は決まって眠い。




寝ようと思う時間よりも前に必ず眠くなる。





さてさて、独り言。



なんででしょうね、以前よりテレビに文句つけたり、新聞の記事に文句つけたりする割合が多くなりました。





個人的には非常に悪い傾向だと思っております。




いつだってしゃべりすぎるのが僕の悪いところだと認識しておりますので。いつも調子に乗り過ぎる。




この傾向は、家族と一緒にいる安心感(何を言っても一息子の言う事だと受け止めてくれる、ちょうど良いぬるま湯)と、現実にどうこう出来ない自分の無力感であるのかなと思います。





現実を知ったとかいうわけでもないし、そもそもそうであっても絶対そういうふうには言わないだろうし。




ただ、自分の怒りは正しいとか間違っているとかいうもののそもそも外側で、あまり意味の無いものなんだなぁと感じているのに、文句が多い自分に違和感を感じるのです。




なんともしがたいものですねー。





さて、最近は





内定者合宿の準備と






それに当たっての課題と






個人的なお勉強






バンド練の事前準備



バイト



でぐるぐる回っております。




なんせバイトは繁忙期。




シーズン通して忙しいですが頑張ります。





ここのところ注目しているのはTPPの動向と日韓スワップ協定。





ちなみに僕はTPP反対派もとい慎重派。




なぜか農業にしかフォーカスが当たらないのが全く理解できないし、交渉条件・なにがしたいのか・メリット・デメリットが一切共有されていないのになぜ交渉するという選択になるのか、意味がわからない。



アメリカの都合のいい部分を押し付けられて、アメリカが喜ぶだけというのが今のところの印象。


必要性があるのならばそれを論じれば良いし、ちゃんと交渉できることをデータでもって説明すべき。




はっきり言いますが、アメリカのように医療自由化を推進するなんて馬鹿らしいことが本気で実現する可能性があるのならば、断固拒否します。




結末は誰の目にも明らか。




ま、ただのつぶやきです。





理解しがたい、あってはならないとおもう世の動きが現実に手の届かないところで動くからこそのもどかしさでしょうね。




ではまた。

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