本棚に落書き

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Posted by ごどはんど on

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Glowing Red on the shore of Penida (後篇)

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前回記事の続きです。

未読の方はこちらからどうぞ。
Glowing Red on the shore of Penida (前篇)
Glowing Red on the shore of Penida (中篇)

続きは下から。

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Glowing Red on the shore of Penida (中篇)

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前回記事の続きです。

未読の方はこちらからどうぞ。
Glowing Red on the shore of Penida (前篇)

続きは下から。

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Glowing Red on the shore of Penida (前篇)

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4月も終わろうというタイミングで最近何も書いていないことに気づきました。

ルーティンの感が出てきてしまったのは否めないですが、新しい体験も変化も当然ありますので、そのあたりを落書きしておこうかなと。


4月は5年勤続だったり、会社の統合による決算期の変化だったりして全社イベントのために会社に戻ることがありました。なんやかんやで2,3か月に1度は日本に戻ってますね。

最近で一番大きいのは、日本から戻ってきた後、バリ島の少し先にあるペニダ島というところに冒険しに行ってきたことです。


ということで今回はまさに南の秘境と呼ぶにふさわしいペニダ島について、写真を交えながら。
かなり長編になりますので、お時間あるときぜひ。

画像で重くなるので折り返します。

続きからどうぞ。

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月まで

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トップ画像にかぶさるように出てくる広告はコンテンツを覆い隠してしまうので悪質です。
これまた出てくる広告がテイストに合わないものだからこれは効果としては何の意味もないだろうなぁと考察する気分。

拡散性ミリオンアーサーに罪はないけれど、僕のところに出てしまうなんてかわいそうであります。





さて、常日頃自身の内省的な性格を持ってああだこうだと愚問を頭の中で論じているけれども、いつも思うところにアウトプットの重要さがあります。
これも毎度のこと思っているから詳細は割愛するとして、アウトプットの「むずかしさ」というのはあると思っています。

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基本的にはエネルギーを使う行為である。(目的と手段による)
インプットにおいても同様の傾向は見られており、効率的な生産には環境の作り方が重要になる。


その中でとりわけ大切になるのは、よく言葉では語られる「習慣」というものだと思われる。

人は弱いし、甘い。
生来低きに流れる構造なのだろう。

つまりは努力には限界がある。「頑張る」という行為は長くは続かない。
集中力だって続かないし、踏ん張る筋力は常にエネルギーと引き換えになる。


継続とはすべての力を倍々にしていく式である。
結果を求める場合、頑張らなくても続く構造を生み出すことが最も理にかなっている。


それが習慣であり、自分にとって苦にならない状況、やりたくなる状況、やらなければ気持ち悪くなる状況を作っていくことが肝要ということらしい。


「当たり前を増やす」ということは、非常にシンプルながら最も効果的で、人の成長において最もよく見られる現象だと思う。
別の言葉で言うならば慣れである。迎合ともいう。
印象の問題で、指している主体はそれほど違ってはいない。

本人も気づかぬうちに、出来ることが増えている。脊髄反射的に次のアクションが出てくる。


概ね成人してしまえば脳の容量は成長しないし、速度も飛躍的に上がったりはしない。
そうなるとやるべきは、アウトソースするか、効率化するかのいずれかしか方法はない。


仕事なんかで言えば、考えなくても体で覚えている状態に持っていくというのは効率化(脳内でのショートカット)の最たる例である。
良い悪いという話でもない。
場合によっては、考えるプロセスを省いてしまっているので異常の検知ができない、応用が利かないといった状態が生まれる。

そこはひとえに自覚の問題だろうなと思う。


大事なことは、容量もスピードもほぼ決まっているということ。
同じスペック・許容量の箱で今よりも良いものを生み出そうとするのであれば、今までのものをアウトソースするか、今までのものをより少ない容量に圧縮する必要があるということ。


アウトソースの意義、方法論、圧縮の弊害、そういったものをコントロールできることが、知的生産性の高さでもある。
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自身がより良いと思う方向に加速するときに外注・圧縮の方法論をうまく使うことができるということは、努力の精神的ハードルを超えることにも無関係ではないであろう、考察でした。



ちなみに、「好きこそものの上手なれ」でいうところの成長は取捨選択であって、可処分時間(充当時間)の自然コントロールであるからまた別のお話です。




最近はずっとこの曲を聴いている。

わずか2分ちょっとの曲で、そんなに特別際立ったものでもないのですが、それはもう大変なきらめきです。
のびやかで張りのある声、つやっぽさから遠ざかりつつ情感のある曲だと思います。

言葉選びが素敵です。

「君はどうだい 月くらいなら迎えにいったのに
最終電車を逃したんだ 一番早い電車に乗るよ」

「髪でも切りに行こうぜ」

シンプルさと美しさというか、奥深さが同居する、こういったものこそ3ピースロックバンドサウンドの醍醐味だよなぁと思う次第です。

Hump back "月まで"

今後も注目です。


ではまた。


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想像と都市の子供

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新年あけましておめでとうございます。


ひらがなで書くと柔らかさが出るように思えるけれど、こういったものは出来る限り漢字で書いたほうが読みやすいのか、そもそも上品さは関係あるのだろうか、などなどを書くたびになんとなく考えます。



出来る限り思考をキレのあるうちに保存しておきたいと思うのですが、最近その役割はエバーノートに移行しており、ブログは日常生活書きなぐりの色が強くなっているようです。


とはいえ自身として、後から見直した時に自分の頭を整理してくれたり刺激してくれたりするようなきらめきを含んでおきたいと思うので、そういった思考を何ともなく書いておこうと思います。




「仕事のために仕事する、という発想は貧弱だと思う。」

僕は別に仕事がしたいわけではない。

生きていくうえで人間社会に価値提供をする必要がある、と考えているのでそれを行うわけですが、その過程で自身のやりたいこと・モチベーションの源泉みたいな部分をこの価値提供とコラボレートすることで幸せを感じやすくなるんではないだろうかと思っているのです。

提供をしているのが我々で社会の側が対価の支払いを行うため、当然自分を寄せていったとしても依然として”やらなければいけないこと”(やりたいか否かに関わらず)は発生するが、やらなければいけないことで埋め尽くされているというのは大変不幸だと思う。

やらなければならないことを処理して、いかにやりたいことをやるのか。
そのやりたいことが仕事に重なっているのであれば、幸福感は得やすいだろうということです。

やりたいことが仕事でもよいとは思いますが、やりたくないのにやらざるを得ないのであれば最小化するための努力をすべきだろうとは思います。

”生活のために仕事をする”、のほうが幾分かましではあります。

低次の欲求であって、どちらにせよ満たされなければ人として生きづらい。
ここが満たされないまま生きることは結局自由度が低いということなので、やらざるを得ないことだらけになり、結局は人間らしい幸せを求めるのであれば高次の欲求が満たされるように動くのが一番効率が良いのでしょう。






「たいていの場合人は望むように生きる。問題は認識の有無。」


正義も悪もいいも悪いも、相対的なものであり、自分の意識に依存する。

自分が思うままに歩いたら良いだけで、それができない場合は、そうしたくないだけの理由が別に存在する。

本能と思考は別物。欲求や性格が自分の志にそぐわないことは別に矛盾ではない。

志に沿って変えられるものがあるということであり、それがつまり自由意志であるわけです。
変えられなかったとして、間違っていたと思うのか、その程度だったと思うのかは自由。


いずれにせよ、認識がすべてであると思います。


不満が出るのは、認識の欠如からであって、そして不満を言うということは実効性の欠如です。

認識が届けば、それはおそらくより直接的な行為によって表現され得るので。






「カテゴリというものは切った瞬間からそれ自体に規定される。個々のパラメータに意味があるわけではない」

これも結局は認識の問題。


不平等は人の作り出す幻想です。
不平等であるわけではなく、不平等に”なる”ということです。


人はそもそも平等である。平等であったかどうかに関わらず。
それは社会の仕組みの話で別問題です。

平等ではある。同一ではない、ということ。
その点についてどんな解釈をしているのか、がつまりは個人の価値観であり、それが社会を形成する。






特に意味はないです。


ではまた。

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